「今日のランチは何を食べようか」、「このプロジェクトはA案で行くか、B案か」、「今回の選挙は誰に投票しようか」など大から小まで、私達は毎日、数多くの意思決定を行っています。判断の是非はともかく、少なくとも自分自身で決定したと誰もが感じていることでしょう。しかし、本当にそう言い切れるのでしょうか。
私達の意思決定システムは大雑把に言うと、直観などに依存した「システム1」と熟考をベースにした「システム2」の2種類に分けられます。「システム1」は無意識のうちに超高速で答えを出し、エネルギー消費量も極めて少ないという優れものです。日常生活の大概は「システム1」の判断で事足りると思われます。他方、「システム2」は入力された情報を様々な記憶と照合し、じっくり考えて判断します。大量にエネルギーを使いますし、回答までに時間を要しますが、合理的な判断となる可能性が高いものです。例を挙げると、自然と答えが出てくる ”2×3” の計算は「システム1」の領域、考えないと答えられない ”69×37” の計算は「システム2」といった具合でしょうか。
意思決定のプロセスは、「システム1」の回答を「システム2」が吟味して最終決断を下すという形になっています。誰もが自分自身で意思決定したと感じるのは ”熟考” の「システム2」を必ず経由しているからでしょう。しかし、「システム2」は大量のエネルギーを消費するうえ容量も限定的なため、稼働は必要最小限に抑えられており、実は「システム1」の回答を安易に承認するケースが非常に多いようです。
その「システム1」は多くの優れた面を持つ一方で欠点も抱えています。特に、現実の捉え方については注意が必要です。「システム1」は、
記憶から取り出しやすい情報や目の前に見えている事象を都合良く組み合わせて一貫したストーリーを作り上げ、シンプルで解り易い世界観を提供します。そのお陰で私達はこの複雑な世界の中でも精神の安定を保てている訳ですが、やはり現実の世界は無数の因果関係で動いているため、必ず歪みが発生します。また、「システム1」の判断には危険や損失を必要以上に嫌うといった太古の時代に生存のために必須であったと思われるバイアスが依然として強く影響しています。
これらが、本来の自分(「 システム2」 ) であれば選択しない筈の非合理的な決定を導く背景になっています。
こうした歪みや非合理性を観察できる場として株式市場は絶好の場でしょう。株価変動の8割は市場参加者がその銘柄を「どれくらい好きか」に依存するという考え方があります。すなわち株価というのは企業が生み出す利益を基準にしてその価値を合理的に見積もっているのではなく、市場での「人気度」が動かしているというのです。これに関してはウォーレン・バフェットの師であるベンジャミン・グレアムが、株式市場を情緒不安定な「ミスターマーケット」と名付け、短期的には投票機にすぎないと述べていますので、それほど違和感のある考え方ではないでしょう。
この原因は多くの市場参加者の意思決定が「システム1」の影響を強く受けていることにありそうです。「システム1」にとって大事なのはストーリーです。たやすく頭に思い浮かぶ事例で因果関係を見繕い、見事なストーリーを紡ぐのですが、「システム1」が提示する世界は本当の世界を極端に単純化してしまっていることから、多
くのケースで誤った結論に至ります。現代ファイナンス論の元祖であるフランスの数学者ルイ・バシュリエは株価の動きを「まったくデタラメな動きが連なって形成されている」と言い、希代の投機家と称されるジョージ・ソロスは「コンセンサスは必ず間違う」と指摘しています。
実際、驚異的な収益率を記録し続けたジェームズ・シモンズの運用会社は、こうした人間の判断を徹底的に排除して銘柄間の価格の変動にのみ注目。因果関係を深く追求することなく、単に統計的に有意であるという事象を見つけ出して「買い」と「売り」を組み合わせた取引を超高頻度で行うことで、僅かな優位性 (勝率は50%をコンマ数ポイント上回る程度) を大量に積み上げ、莫大な利益を獲得していたと言われています。
短期の株式市場は価値を反映する世界とは別世界であり、ある意味、「システム1」が不確かな因果関係で作り上げたバーチャル世界といえるのかもしれません。
ストーリーを紡ぐために、因果関係を見付けたがるバイアスが強くかかっている私達の頭は、ジェームズ・シモンズのように「ただの統計」をうまく扱えません。彼の運用会社は数学者、物理学者、天文学者といった選りすぐりの「理系」頭脳で構成されており、私の様な「文系頭」では真似することすら絶望的ですが、そう悲観することもありません。
ナレッジを蓄積することで「システム1」の性能を高めることが、ある程度可能と考えられるためです。近年、経営学では「直感の優位性」が議論されています。優れた経営者の「直感」や「閃き」が会社を大きく成長させた事例が散見されるためです。実際には運の要素も大きいと思われますが、確かに不確実な未来に対して凄まじい「直感」を見せつける経営者は存在します。彼らの共通項は「システム1」で使用する情報の
厚みではないかと思われます。適切な経験や学習によって、並外れて分厚く良質な情報が蓄積されていることから、因果関係を見繕う際に使う事例が豊富であり、より現実に即したストーリーを構築することに秀でているのではないでしょうか。
当然、優れた経営者と私の様な凡人を同列で論じることに無理はありますが、「三人寄れば文殊の知恵」という諺にあるとおり、「組織」として取り組めば不可能では無いでしょう。そこでは優れた経営者の幅広く分厚い情報を皆で分担して蓄積する訳ですから、組織を構成するメンバーが様々な形のナレッジを保管できる多種多様の倉庫であることが重要です。組織にとって「ダイバシティ」の必要性が叫ばれる本質はここにあるのでしょう。
最後に前述のベンジャミン・グレアムの言葉の後半部分も記しておきたいと思います。
「短期的には株式市場は投票機にすぎないが、長期的には計量器である」
株式市場は何を計量するのでしょうか。言うまでも無く企業の価値です。人気投票を勝ち抜くにはスーパーコンピューターの力を借りて「単なる統計」を極限まで駆使する必要がありそうですが、持続的な成果には「計量器」、言い換えればナレッジに裏付けられた意思決定力(判断力)を磨き上げることが鍵であると言っているように思えてなりません。
生成AIが世界の在り方を変えようとするなか、株式市場以外でもあらゆる場面で意思決定力が重要になると思われます。経営学の権威であるジェイ・B・バーニーは、生成AIの単なる導入は企業の競争優位にはつながらないと述べています。パソコンやインターネットと同様に全ての企業が導入するからです。生成AIを使って価値創造を導く「意思決定力」こそが差別化要因
と言えるのでしょう。今のうちに「システム1」をうまく手懐けて、意思決定を自分の手に取り戻しておきたいものです。
■参考文献
ダニエル・カーネマン
『ファスト&スロー』『NOISE』
ジョージ・ソロス
『ソロスは警告する』『ソロスの錬金術』
田渕 直也
『ファイナンス理論全史』
グレコリー・ザッカーマン
『最も賢い億万長者』
ベンジャミン・グレアム
『賢明なる投資家』
ダニエル・ラスムッセン
『謙虚なるコントラリアン投資家』
ジェレミー・シーゲル
『株式投資』『株式投資の未来』
ジョン・C・ボーグル
『インデックス投資は勝者のゲーム』
ジェイムズ・O・ウェザーオール
『ウォール街の物理学者』
入山 章栄
『世界標準の経営理論』
DIAMONDOハーバート・ビジネス・レビュー